Fannie Lou Hamer: Papers of a Civil Rights Activist, Political Activist, and Woman
本コレクションは、アミスタッド研究センター所蔵資料より、女性参政権運動家・黒人公民権運動家のファニー・ルー・ヘイマー(Fannie Lou Hamer, 1917-1977)の文書集を収録するものです。
ファニー・ルー・ヘイマーは小作農家の娘として生まれました。学業を終えた後、小作農民としての日々を送っていましたが、マーティン・ルーサー・キングと共闘して公民権運動を展開したジェイムズ・レヴェル師が有権者登録を呼びかける説話を聞いたとき、転機が訪れました。当時、南部では有権者登録を行なう黒人は解雇や暴力など、人種差別に由来する暴力を受けていました。ヘイマーはレヴェル師の呼びかけに応えて、説話を聞いた他の参加者と貸し切りバスでミシシッピ州のインディアノーラに向かいます。その時、ヘイマーは人々を鼓舞するために讃美歌を歌いました。公民権運動が深く精神に根差しているとのヘイマーの信念を表わす讃美歌は、以後ヘイマーの公民権運動のシンボルとなります。ヘイマーの勇気と指導力は学生非暴力調整委員会(Student Nonviolent Coordinating Committee)のボブ・モーゼスの眼に止まり、ヘイマーは請われて委員会の実務面の幹部となりました。
こうして、公民権運動家となったヘイマーですが、1963年悲劇に見舞われます。他の運動家とともに、濡れ衣を着せられ逮捕され、収監された時、警察から拷問を受け、瀕死の重傷を負いました。3日後に釈放されたものの、事件はヘイマーの身心に重大な影響を及ぼしました。しかし、ヘイマーは屈することなく、「自由投票権模擬選挙(Freedom Ballot Campaign)」や「フリーダム・サマー」のキャンペーンを通して、有権者登録の支援活動を継続しました。
ヘイマーが全国的に注目を集めたのは1964年の大統領選挙です。全員が白人で構成され、公民権運動に後ろ向きの姿勢を見せるミシシッピ州民主党は黒人の利害を代表していないとして、ミシシッピ自由民主党(Mississippi Freedom Democratic Party)を共同で創設し、同年8月にニュージャージー州アトランティック・シティで開催された民主党全国大会に代表団の一人として参加、ミシシッピ自由民主党への応分の議席配分を要求しました。
ヘイマーが党大会の資格審査委員会で演説を行なうことになった日、演説が南部の民主党を刺激し、大統領候補の指名獲得に悪影響を及ぼすことを恐れたジョンソン大統領はヘイマーの演説時間に合わせて急遽予定のなかった大統領の記者会見を組み込み、メディアの関心を逸らせようと試みます。しかし、テレビ放映されたヘイマーの演説は南部の黒人の差別的境遇への関心を引き起こし、自由民主党を支持する多数の書簡や電話が資格審査委員会に届きました。このような状況の中でジョンソン大統領は自由民主党にわずか2議席を与える妥協策を提示しました。この妥協策はキング牧師も同意したものの、ヘイマーは断固拒否しました。
ヘイマーらの要求した民主党大会における黒人代表は、次の1968年の大統領選挙の年に実現することとなりました。ヘイマーは全米黒人女性協議会が1970年にミシシッピ州に設立したファニー・ルー・ヘイマー・デイケア・センターの会長に就任、サンフラワー・カウンティ・デイケア・センター・ファミリー・サービス・センターの役員としても活躍しました。ヘイマーは初等教育しか受けていなかったものの、公民権運動に果たした功績に対して多くの大学が名誉学位や賞を贈呈しました。
ファニー・ルー・ヘイマー文書は、書簡、経理資料、写真、新聞記事、各種印刷物等、公民権運動に生涯を捧げたヘイマーの活動を記録する3,000点以上の文書を収録するものです。文書全体は個人文書(Personal)、ミシシッピ自由民主党(Mississippi Freedom Democratic Party)、自由農場会社(Freedom Farms Corporation)、デルタ牧師団(Delta Ministry)、黒人候補者選出のための統一ミシシッピ州人(Mississippians United to Elect Negro Candidates)、デルタ機会会社(Delta Opportunities Corporation)、雑録(Collected Materials)で構成されています。
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