近藤和彦先生にECCOについてお話を伺いました

  

 

 東京大学名誉教授

学者たちも忙しくなると思います

実施日:2007年5月2日 
ゲスト:近藤和彦先生
機 関:東京大学 
トピック: 
Eighteenth Century Collections Online



まず、先生の研究分野をご紹介いただけますか?

近代イギリス史全般で、とりわけその中でも18世紀を専門にしております。18世紀というのは、僕が学生のときにはイメージが浮かびにくい時代でした。ピューリタン革命が17世紀にあって、19世紀に産業革命とかイギリス帝国ということになるわけですけれども、その間の谷間みたいな時代でした。でも、アイザック・ニュートン(Isaac Newton, 1642-1727)とか、辞書のサミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson, 1709-84)とか、あるいは、アダム・スミス(Adam Smith, 1723-90)やエドマンド・バーク(Edmund Burke, 1729-97)、そういう人たちがいました。日本で言えば、夏目漱石の専門が18世紀だったのですね。18世紀の英文学、ダニエル・デフォー(Daniel Defoe, 1660-1731)とかジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift, 1667-1745)とかいう人たちの研究をしていたようです。それは後で気がついたことですけれど。1970年代から18世紀研究がとても盛んになり始めていましてね。偶然ですけれど、僕が大学院に入ったのがちょうどその頃でした。ちょうどその、イギリス人、アメリカ人の18世紀研究がすごく盛んになり始めた時期に大学院に入ったということで、最初は17世紀か19世紀かをやるつもりだったのですが、どんどん18世紀にはまってしまいました。もうそこから出て行けなくなってしまって。(笑)

 

このたび貴学でECCOをご導入いただきましたが、 ECCOを使って先生がなされている研究を教えていただけますか?

ECCOは、18世紀に刊行された英語の出版物すべてをデジタルデータにするということで、素晴らしいデータだと思いますね。あらゆる意味でECCOは役に立ちます。第一には、稀覯本と言いますか、日本の大学図書館にないようなもの、これを、かつてはブリティッシュ・ライブラリーにコピーを頼むとか、自分自身で出かけて行ってコピーしたり、コピーが許されない場合は、一所懸命に手書きで書き写したりしていたわけです。それが、オンラインでアクセスして、しかも、きれいにプリントアウトもできる。イギリスの大学やブリティッシュ・ライブラリーの複写施設というのは、かつてはすごく劣悪でしたから、コピーをとっても、日本では考えられないほど汚いコピーしかもらえなかったのが、今回のデジタルのものですと、それなりにきれいに出ますから、それだけでもありがたいと思いますね。そういう、日本でアクセス不能だったものが容易にアクセスできるという点が第一ですね。今の話はマイクロフィルムの時代でも本質は同じでしたけれども、第二には、ECCOはデジタルデータベースで全文検索ができるということで、また全然違ってきます。あとで具体的な例をお話したいと思いますが、よくやられているのは、出版業の歴史などをやる場合に、その出版社で検索してみて、この出版業者がこれこれの出版をしていた、その政治的あるいは思想的な特徴があるかないかとか、そのような研究はこれまでにもあるわけです。それとはまた別に、キーワード検索で、こういうデータベースがなかったときには全然想像もできなかったような新しい研究の広がりができたということが言える。そういう点で、革命的だと思います。

 

先生のホームページに掲載されていた、 イギリスでのエピソードをぜひお聞かせいただけますか?

ブリティッシュ・ライブラリーは移転して、便利になったのはいいのですけれども、何か内部的な運用がうまくいっていない例です。 今、ブリティッシュ・ライブラリーでは本を請求するときに端末に、分類番号とかタイトル、キーワードを入力するでしょう。これこれの18世紀に刊行された15巻本のうちの7巻目を見たいという場合に、その端末がいけないのか、請求しても第1巻しか出てこない。オンライン・サービスではうまくゆかないから、人力でやってくれと言っても、何人かでゴチャゴチャ言っていてどうしようもない。 その本は15巻本で、全部ECCOに入っていることは知っていましたから、本当は現物を見たかったわけですけれども、すぐに必要だったので、第7巻の何ページというのを検索して、ECCOからプリントアウトしてしのいだ、ということがありました。 それはでも、ECCOのメリットというより、ブリティッシュ・ライブラリーの運用がうまくいってないというだけのエピソードですね。(笑)

 

ただ、以前だったらそこで止まってしまっていたものが一応解決をみたということは、うれしいことですね。

 

正確に比較研究ができるようになりました


それから、ECCOがイギリス人にとっても研究環境の改善になっているというひとつの例としまして、例えばオックスフォード大学は、いろいろな稀覯本もあって、イギリスの歴史をやる場合には世界でいちばん宝物を持っている大学です。特に中央図書館がボドリアン(Bodleian Library)という、ルネサンス的な雰囲気の残る、いいところですけれども、あまりにも歴史的すぎて、モダンじゃないのですよ。僕が最初に留学したときなんか、カタログは手書きの大福帳でしたから。手書きで「1」という数字はこういうふうに(手でS字を書く)、singleの「S」ですから、それを「S」なんて書いちゃうと、もう全然行き当たらないわけです。しかも注文してから2時間、3時間は待たなくてはならないという大変なところですね。そして中央図書館だけじゃなくて、30いくつのカレッジにライブラリーが分かれている。いろいろ必要なとき、必要なところへ渡り歩いてそれぞれの文献を見なくてはいけなかったわけです。すべて、稀覯本は貸出不可ですから、昔はゼロックスなどの設備もないわけで、あるテキストの違う刊本があった場合に、それぞれの版による違いをきちんと調べようと思ったら、片方を手書きで正確に写しておいて、もう片方も手書きして、その両方を照合しなくてはいけなかったわけです。それがこのECCOになりますと、ライブラリーでも自分のオフィスでも、それぞれのバージョンにアクセスして照合できるわけです。ボドリアンのもの、トリニティのもの、ベイリオルのものなど、3つも4つもいっしょに照合して、画面で見るだけでなく、プリントアウトもできるわけですし、正確に比較研究ができるようになりました。そして、オックスフォードだけじゃなくて、他の大学にも稀覯本はたくさんあるのだなということを、オックスフォード大学の先生方は、いわば世界の中心だと思っていましたから(笑)、「いいものは自分たちのところにしかない」と思っていたのが、案外ほかにもあるのだと認識して、彼らの世界観をより正しい方向に近づけるという効果も、このECCOにはあると思います。


イギリス人でさえも、ECCOを使うことにはメリットがあると。
ええ、もうそれは、本当にすごいことだと思います。


今までなされてきた研究で「あのときECCOがあればできたのに」ということは、ありますか?
それは、その時代、その時代に与えられた条件の中でできることを考えてやっているわけですからね。レアブックスをなかなか見つけられない時代には、自分が見つけて黙っていれば人には分からない。自分のオリジナリティを主張できたわけですね。それが今ではデジタルの世界で、あっという間にみんなに伝わっちゃうから、学問が民主化したと同時に、オリジナリティが簡単には主張しにくくなった。例えば、僕が大学院の時代に、18世紀のマンチェスターの労働運動などをやっていたのですけれども、その中で、マンチェスターの最初の組合の設立趣意書および規約書みたいのがあります。1756年に出ているのですが、こんなものを使って仕事をしたりしたわけです。これは、マンチェスターの図書館に頼んで、マイクロフィルムを送ってもらって、それを日本で焼きつけた物なのですね。僕の修士論文はこんな材料を使って作ったのです。それで、ECCOにもあるのかなと思って見てみますと、いくつか、ないのですよ(笑)。まだECCOに収録されてない。ECCOはまだ15万点しか収録していませんから、それから外れているのですね。まだまだレアブックを発見する余地はいくらでもあるのかもしれない。

 

恐れ入りました。(笑)ではまだ、先生のオリジナリティは失われてないということですね。

大学図書館ではなくて、地方のマンチェスター市立図書館にあったということで、引っかかりにくかったのかなと思いますけれども。


 ECCO以前の文献調査の方法についてお話を伺ったのですが、逆に、このフルテキスト検索などの機能によって新境地が開けるといったお話もまたお聞かせいただけますか?

まったくその通りで、これが使えるようになって、昔の研究者だったら考えつかないような研究テーマが出てきたと思います。ひとつは僕の友人で、オックスフォード大学の先生をしているジョアナ・イニス(Joanna Innes)という人がすでにやったことなのです。最近「公共性」とか「公共圏」とかいうことが、話題になりますよね。 (ご自身の本を出されて)これは、ジョン・ブルーア(John Brewer)の去年出た著書ですけれども、このブルーアさんとイニスさんは友人関係ということもあって、この「公共圏」=「public sphere」という言葉が、18世紀にはどう使われていただろうかということで、ジョンソンの辞書とかに項目はありませんけれども、ためしに彼女は、「public sphere」で検索してみたのですよ。そしたら20件くらいヒットしたようです。要するに、女性が家庭から外へ出て行って、他の人といろいろ交流したり、そういうpublicな場へ出て行って、なんだかんだ活躍することはけしからん、というニュアンスでの使われ方もあったようです。彼女がそんなことで論文を書いたりしたものですから、それに影響されて、僕の場合は「moral economy」という言葉で検索してみたのです。これは面白いものだから、今年度の授業でやっています。「moral economy」という言葉を学術用語として使ったのはE・P・トムソン(E. P. Thompson, 1924-93)という人です。彼は1970年前後の論文で、「moral economy」という言葉を使いはじめて、それがいろいろな人たちにインスピレーションを与えるようになるわけですが、彼は、〈何でもあり〉の今の経済、マネーゲームでワーと動いてしまうような世の中の在り方に対して批判的な立場を取る人だし、そういう何でもありの経済はアダム・スミスの自由放任主義から始まったと、彼に言わせればね。ところが同じ時代に、イギリスの、特に民衆や、聖職者、治安判事たちの中には、「moral economy」という言葉を唱えた人がいたと。その何でもありの、買い占めや投機とかいうことをやっている人たちを、お坊さんの場合はお説教で諫めるだけですけれど、民衆の中には、直接行動で、打ち壊しに行ったりとかいうことがある。ラッダイトもそういうことのひとつの表れだと言っているのですね。でも同時に、そこで書いているのですけれど、「I cannot now find references」というので、18世紀の人たちが使った言葉なのだけれども、その出典は今となっては私は思い出せないと。18世紀の資料にあった言葉で、彼の頭の中にあるけれども、それが、何という本のどこにあったかは今言えないのだ、と言うのですよ。…「ECCOがあるじゃないか」と。(笑)じゃあ、探してみようと考えたのです。トムソンさんは残念ながら1993年に亡くなっていますから、もうダメなのですけれども、トムソンに代わってやってみました。(笑)


その結果は。
そうすると、この1701年から1800年の間に、46件ヒットしました。「moral economy」という綴りが昔ですと、(資料を出して)こういうふうに「Oeconomy」という綴りになる場合もありますけれども、幸い、検索語に「O」を入れなくても、「E」の前に別の文字が入っているという扱いになりますから、これでヒットするのですね。あともちろん、語尾について「-y」じゃなくて「-ie」とかね、1つ2つずつ、ちょっとした操作をすることによって、新しいものが引っかかったりします。基本的に46から50件ヒットしました。そして、その一覧をまずはプリントアウトして、ひとつひとつ見ていくわけです。最初、「この本にあるというのはわかっても、200頁の中からどうやって探し出すんだよ」と、心配していたら、ちゃんと、ページ番号で「36」、イメージ番号だと「37」とか出ますから、そこをクリックすると、直ちにどういう風に使われているのかがわかります。それを46件全部についてやってみました。やってみましたけれども、どうもこのトムソンさんが使っている「なんでもありの世の中に対して、そうじゃない倫理的な、人らしい生き方をすべきだ」という文脈にぴったりの用法というのは、まだ出ていないような気がします。1800年までではね。そうではなくて、18世紀の前半ですと、たいてい聖職者とか、世俗の人であっても宗教のことを論じているところで、「神の摂理とモラル・エコノミー」「moral economy of Jesus Christ」とかね、そういうふうな、神様が定めた世の中の在り方みたいな、神学論議なのですね。前半はずっとそうなのです。それが、例の辞書のサミュエル・ジョンソンになりますと、1759年なのですけども、そういう神学論議と関係ない用法をしているのですね。神様とは関係なしに、「human economy」という、これですね、「Human Oeconomy」というタイトル、これは副題ですけれども、その本の中で、「moral economy」というのを論じているところでは、「natural Philosophy and moral Oeconomy」と言っています。
要するに、ニュートンのような自然科学、自然哲学とか、ヒューム(David Hume, 1711-76)などのスコットランド啓蒙ですね、そうしたものの中で、この「moral Oeconomy」が言われています。アダム・スミスはよく知られているようにmoral philosophyの先生でしたが、今の人文社会系の学問全部を含む、そうした言葉として、ジョンソンは「moral economy」という言葉を使っています。彼は、その時代の学者や物書きたちがどういう言葉の使い方をしていたかということにとてもセンシティブですから、それでこういうことを言えたのだと思います。ECCOは英語の出版物すべてが収録対象ですから、のちにアメリカのウェブスター辞典を作った、ノア・ウェブスター(Noah Webster, 1758-1843)も「moral economy」という言葉を使っていたことが分かります。ウェブスターはフランクリン(Benjamin Franklin, 1706-90)をとても尊敬していたようで、本書の最初のDedicationで、結局、フランクリンに対する謝辞を述べているのです。そこで、「. . . government, agriculture, commerce, manufactures, rural, domestic and moral economy」― これはよくわからないけれども、とにかく神様とは関係ない、ものつくりとか、農村のエコノミー、家の中のエコノミー、そしてモラル・エコノミーとういうことで、人間精神の活動とか文化とか、そういう意味で使っているのかな、と思われるのです。とにかく、ECCOからわかってくることは、18世紀の前半は神学論議の中でしか出てこない「moral economy」が、18世紀後半には、やはり神学者たちの用法もあるのですが、世俗的な用法が増えている。まず、「moral economy」のヒットする数が、18世紀後半になるとどんどん増えてきて、1790年より後になるともっと増えてくるのですね。だから、本当は1800年より後を知りたいのです。もっと、グーッと用例が増えてきているはずなのですよ。19世紀に入るとロマン主義の時代、ワーズワース(William Wordsworth, 1770-1850)などの時代ですから、古くからの人間的な共同体を大切にした世の中、文化みたいな用法が出てくるのではないかと予想されるのです。トムソン先生はもしかしたら、そういうのを読んで、もう19世紀なのだけれども、なんか18世紀だったような気がしていたのかもしれない。最後の結論が出ないのがちょっと弱いのですけど(笑)、ECCOがなかったらそんなこと、ちょっと調べてみようなんて絶対考えないのです。やってみて、こういう傾向性があるのだと、そしてその先に本当の答えはありそうだということは予想できる。ですから、「Nineteenth Century Collections Online」を早く作ってくださいということです。(笑)


 今のお話にもそうした側面がありますが、こういうデータベースを利用して用語の使用頻度などの統計的な研究もされていますか。
いえ、まだやっていません。傾向性は出てくると思いますけどね、さっき言いましたように、僕が発見したパンフレットが載っていなかったりするわけですから、点数についての信頼性はまだ足りないのですよ。つまり、ECCOで調べて、これは46点だ50点だと言うのだけれども、本当は120点くらいあるかも知れない。でもきっと、それぞれの時代に何%かずつ落ちていて、傾向性として、世紀の後半に増えてくるというそれ自体は間違いないだろうと思われるのですね。


サンプルとしては十分なものですよね。
そうです。


ECCOは、オプションで今後モジュールが出る可能性もありますので、まだあきらめないでください。今、日本で先生はECCOを使っていらっしゃるわけですが、日本人があえてイギリスの18世紀を研究することについて、どのような意義があると思われますか?
特にイギリスに限定する理由はないと思いますが、18世紀のヨーロッパはいわゆる啓蒙の時代ですし、いろいろな自然科学も、経済学も、その基礎ができた時代ですね。しかもその基礎を作るに当たって、ヨーロッパの人たちがヨーロッパの知識だけではなくて、大航海時代から、アジアやアメリカとの交流によって得た知識をもとに、世界を理解しなおそうとした成果です。いわば新しいOS(基本ソフト)をインストールして、近代という時代を起動したようなものです。とりわけリンネ(Carl von Linne’, 1707-78)の博物学がそうなのですけども、珍しい、アジアやアメリカから来た文物をどう合理的に理解し分類するかということで、ラテン語2つを並べて、すべての動物も植物も、鉱物も、名前を付けていくという二名法が始まるわけでしょう。それはもう今にいたるまで、自然科学の基本です。要するに、どんどん非ヨーロッパの事実や知識を学びながら、近代的で合理的なヨーロッパの学問ができあがった。19世紀にヨーロッパが、アメリカも一緒ですけれども、世界を支配するようになった根拠は、18世紀にできあがった、ということだと思います。それは、良い面ばかりではありません。帝国主義とか、民族的な在来文化をぶち壊していくとか、世の中の秩序をある目的合理性でつらぬいて、自然環境も犠牲になっていくとか、そういうことも含めてですけれども、とにかく近代が始まる。そして近代の知やシステムが始まる時代ですね。この時代を正確に理解しておくことは必要不可欠だと思います。そのころにはイギリスかフランスか、どっちが近代世界の覇権を握るか分からなかったのですけれども、いろいろなことがあり、長い間続いた戦争に結局イギリスが勝って、フランスはイギリスの後を追いかけていくという形になりますね。そのイギリスが、単に戦争に勝っただけじゃなくて、ニュートンもいたしスミスもいたし、知的なことでも他に勝るものを用意していたのだ、ということはわかりますね。そのニュートン、スミスは山の頂点ですけれども、それを支える広い裾野があったということは、このECCOによってよく分かってくると思います。


もうすでにマイクロフィルム版の「The Eighteenth Century」を所蔵されている大学が、あえてECCOを導入すべき理由があるとしたら、それはどのようなことになりますでしょうか?
それはもう、稀覯本を読むことができるというだけではなくて、その検索ですね、全文検索ができるという点です。マイクロのリールを全部読むだけの暇と忍耐力のある方だったら別ですけれども、そうでない普通の人には、デジタルの全文検索を利用するしかないわけですから、マイクロがあってもなくても、絶対にこのデータベースを利用するしかないと思います。


 先日、甲南大学の井野瀬先生が別のインタビューの中で「研究の省エネ化」ということをおっしゃいました。
うーん、「省エネ」ですかね。例えば新幹線ができたことによって、サラリーマンの自由時間が増したのか、というとそうじゃなくて、逆に日帰り出張が増えたというのと同じことで、学者たちも忙しくなると思いますよ。
決して楽はできないですね。そう。「いろいろ新しい研究ができるはずだ」ということになると思います。


逆にECCOを導入されたことで、先生もかえってお忙しくなるかも知れませんね。
そうかも知れません。

 

文化の地滑りといっても良いかもしれません


以前、別の先生が、「最近、電子化によって、いろいろと検索することができて、すぐに欲しい情報にたどり着けてしまうがために、本当は深い知識がないのに、その場ですべてを集めてひけらかすような輩がいる」とおっしゃっていましたが、先生はどのように考えられますか?
それは評価が2つにわかれると思いますけれども、僕はやっぱり前向き派だな。確かに昔からね、専門書にはおしまいに索引のページがあるでしょう。その索引について、昔から権威主義的な先生方は、「本というのは目次どおりに最初からきちんと読んで理解していくべきものなのだ。ところが最近は索引だけ引いて、必要な123頁とかを見るだけの学生がいる」などと怒っていらした。索引とはそういうもので、1つの本だけありがたがって、聖書だの『資本論』だのを一所懸命に暗唱するように読めばいいというものではないのですよ。学問というのは、こちらの問題意識で、いろいろな種類の本を何百何千と自由に使って、新しい、聖書もマルクスも超えるような理論というのを打ち立てれば良いわけです。ですから、索引を活用するのと同じだと思います。もちろんそれぞれの作品がどういう風にしてできあがったかというのは、知っておいた方が良い。でもそれはデジタルだからといって分からない訳ではないのです。タイトルページはもちろん、しっかり見ますよ。いろいろな出版データについても。それから、活字が時代によってこう変わるのだな、ということなども見ます、こっちの問題意識に応じて。それでも、何百冊の本を何百ページ、全部読むなどということは、やっていられない。3ページ分くらい読んで済むなら、それで良いじゃないか、という立場です、僕は。

逆に全文検索によって、これまで正典とされていなかったために日が当たらなかった著作も…

そうです。キャノンが崩れたのですよ。そういう点で学問がデモクラティックになって来ているのです。作品そのものもデモクラティックに標準化されてしまいますけれども、同時に、ユーザーというか研究者の側も、偉い先生、ミルトンならミルトンについて何十年も研究していた先生もそうでない人も、ミルトンについていっぱしのことが言えるようになってしまう。それは権威者にとっては悲しいことですけどね。でも、学問全体のためには、そのほうが良いのではないかという気がします。そういう点で、僕はラディカルというか、先輩たちに対して尊敬の念が足りないかもしれないけれども。(笑)
逆に、次の世代の研究者たちも、またその上の世代を乗り越えてキャノンを壊していくようなことになっていくのかも知れないですね。

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それこそ、中世の修道院で作っていた羊皮紙の写本の時代から、活版本になったときに、活版本を読んで済ませている人たちに対して、オックスフォード大学の教師たちが「そんな汚いものには価値がない」と言っていたのと同じ事ですね。ところが16世紀、17世紀には確実にそっちの方向に進んでしまったわけです。中世の写本は美術品としての価値しかなくなってしまった。これまでの活字本も、もしかしたらあと50年も経ったら、美術品としての価値しかなくなるのかもしれませんね。本当に、革命的だと思います。文化の地滑りと言っても良いかもしれない。


Googleなどの団体が古い文献を片端からスキャニングして公開していくプロジェクトを進めていく中で、ECCOの存在意義が薄れるというようなことは考えられますか?
それはどうでしょうね。Googleがどこまで行くのかということですけどね。Googleが例えば、マイクロフィルムで出ている「The Eighteenth Century」までも載っけるようになったら、それではECCO、ゲールはあがったりということになるのじゃないですか。しかし、まだどれくらい先でしょう? 20年か30年か先の話じゃないですか? いくら早くても。今のこのデジタル化の波というものを、世界史の大きな流れの中で振りかえりますと、よく例えられるのは、15世紀、16世紀のグーテンベルク革命、印刷革命です。それまでは、本は修道士たちが一所懸命、丁寧に美しく制作してきたわけです。本とは宝物だったわけですね。それをグーテンベルクが紙にただインクで押しつけただけの、白黒で、最初のうちは挿絵もないものを、100部、200部と同じコピーを作っちゃったわけでしょう。最初のうち、16世紀のオックスフォード大学は、そんな汚らしいプリントした本なんて集める価値がないというので、1冊も入れなかった。美しい写本だけ揃えていたわけです。でもやがて、ゆっくり印刷物が普及していくと、17世紀に入って、そのオックスフォード大学の図書館も、刊本を大急ぎで集めるようになるわけです。それが、我々のデジタル革命の場合はそういった何世紀というスパンじゃなくて、ほんの10年経てば、もうワッと変わっているような感じですから、今から50年経ってどういう風になるのか、全然分かりません。だから、ゲールもGoogleに飲み込まれることがあるのかも知れませんが、逆かもしれないし、今から心配してもしようがない。今できることをやるということですね。例えば、エラスムス(Desiderius Erasmus, 1466?-1536)が偉かったのは、彼は中世の美しい写本の世界もよく知っていたけれども、印刷出版、プリントしてパブリッシュすることはものすごく大事だということを分かっていた。彼は、ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語のテキストを対比した聖書を自分で編集していたんですが、編集中にスペインでどうも似たような出版物が出るらしい、と知って、ローマ教皇に直訴して、「そのプロジェクトを先に始めたのは私だから、そのスペインの出版は禁止してくれ」という風に、出版戦略についてもしたたかな人だったのですね。ということはつまり、活字出版はものすごく重要でインパクトをもつのだということを早くから理解していた。ですから、このデジタル出版の意味、インパクトを早くから認識していれば、21世紀のエラスムスになれるし、そうでない人は、22世紀になってから、昔のオックスフォード大学みたいに、大急ぎでデジタルデータベースを買い集めることになるのだと思います。(笑)


早く認識した者勝ちなのですね。少し技術的なことになるのですが、ECCOのOCR精度についてはいかがですか?
それは、困ることもあります。イタリックの場合に少し弱いかな。でも立体の活字は、例えば、昔の「S」が、丸い「S」だけじゃなくて、立っている「S」があるとか、「V」2つの「W」とか、そういうのはきちんと拾っていますね。それからさっきのように「Oeconomy」という言葉も、最初に「O」がくっついていますが、「O」と「E」の合字でひとつの字になっている場合も、別々になっている場合も、ちゃんと拾っています。それは、良いと思います。
問題としては、元の本、写真を撮るときに、何らかの事情で紙面が折れて、文字が隠れてしまっている場合があります。そういう場合に、貴重な本だから、ピンセットなどで広げることをしないでそのまま撮っている場合、それはそのままですよね。1行、2行読めないこともあります。僕が実際に使った中でも、そういうことがありました。

 

ご面倒でなければ、その都度でもご報告いただければ、場合によっては対応が可能なケースもございます。画面の操作性についてはいかがですか?
あるページをプリントアウトしようというときは、この「View PDF」というところをクリックするのですよね? 各ページでいちいちクリックするのは面倒だと感じることもありますけど。まあ、それはいいです。 しょうがないのかも知れないけども、「Full Citation」のところにいろいろな書誌情報が出ますが、そこには「Holding Libraries」(所蔵機関一覧)が出ませんね。で、「Holding Libraries」をクリックするとそっちにワーッと出る。実際使う場合には、プリントアウトして使いますから、「また1枚余計にプリントするんだ」というところが、何となく、資源を浪費しているようで、気がひける場合もあります。

 

貴重なご意見として、本社に伝えます。
もうひとつ、慣れてしまえば何でもないことですけども、「何ページ」というのを見るときに、イメージ番号と、実際のページ番号はずれる。ページが266頁でも、イメージ番号は「299」だったりする。これは、慣れの問題で、最初だけちょっと戸惑います。ですが、昔の出版物の場合、パジネイションがいい加減だったりするわけだから、一貫性を持たせた番号はどこかに必要なのだと思いますので、これはユーザーが慣れるほかないと思います。


実際に、授業の中でECCOをお使いになることはありますか?
授業で、これをプリントアウトしたものを配って今のところやっています。つまり、パソコン画面をスクリーンで見せて、ということはしていませんけれども、いずれはするかも知れません。

 

それは、院生レベルの授業ですか?
これは、学部と大学院の合同の講義ですが、学部の3年生なんかは、「ああ…」と言った感じですね。何枚も何枚も、毎週たくさん配るものですから。

 

同時代の資料を見るのもひとつの勉強としては良さそうですね。
大学院のレベルでは、「先生が生き生きしてやっている」なんて、おもしろがって観察しています。(笑)ブログにそんなのが載ったりするのですが、学部生では、「そんなのどうでもいいわ。早く先に進んでよ」という感じの生徒もいるみたいです。

 

自分で検索をしてみると、またおもしろさが分かるかも知れませんね。
もちろん、卒業論文を準備している4年生で、自分でやっているのがいます。特にデモ期間にそれをやった学生は、すごく良かったみたいですね。例えば、ひとつ例を。今年、2007年は、1807年にイギリス帝国で奴隷貿易が廃止されて200年目です。その奴隷貿易禁止にあずかって力のあった、ウィルバーフォース(William Wilberforce, 1759-1833)が活躍したわけですけども、今回、ハリウッド映画にもなった、『アメイジング・グレイス』の主人公ですね。そのテーマで卒業論文を書いた人は、法律が通るのは1807年ですけれども、活動期間は18世紀の後半ですから、このデモ期間のECCOのおかげで、いろいろな出版物をダウンロードしまくっていました。

 

無事に卒業論文は?
ええ、それはいい卒業論文でした。卒論のレベルでそんなことをやれるというのは、幸運なことですよね。

 

本当ですね。では、来年に卒業論文を書かれる学生は、今度はそんなに急がなくともゆったり使っていただけますね。
逆にデモ期間は、いつ終わるかわからないから集中してやることになって、良かったのかもしれません。(笑)

 

もう積極的に利用してほしい


これからECCOを利用される学生に対して、何かメッセージをお願いできますか?
これまで使ったことがない人に対しては、例えば、古本屋巡りや図書館の書架の間をさまよい歩くのが楽しいというタイプの学生だったら、すぐにECCOの魅力に引きずり込まれることになると思います。そういうことを経験してない学生だったら、基本的にECCOは活字になった物、文字資料についてのデータベースですが、その18世紀には挿絵の入っている刊本もいっぱいあるわけですね。そうしたものを見ることによって ― 挿絵と言っても、漫画チックな物もあれば、ただの風景画みたいなものもありますけれども ― そうした、イメージ性のある18世紀のセンスが育つ、ということはありますよね。とりわけ生物や鉱物が好きな人ですと、キャプテン・クック(James Cook, 1728-79)についていた人たちの刊本なども見ることができますし。ただ、そういう絵が元はカラーで載っていたとしましても、今のところはECCOでは白黒になってしまうのですね。

 

今後、そういった技術の進歩によって可能になっていくことも考えられます。
それから、文章ではなく、そういう図版を主にした地図とか、美術的な物は載せてないのですよね。

 

そうですね。1枚刷りのものは基本的に含めておりません。刊本ですね。
そういった点については、まだ開発の余地があると思います。そういったものも一緒になると、18世紀のイギリスおよび世界というものが、より具体的にイメージ豊かなものとして、日本にいる人たちにも手近にアクセスできることになると思います。ゲールとしても、そういうことに積極的に取り組んでいただきたい。

 

かしこまりました。これからECCOを使って研究をされる若い研究者の方々に、何かメッセージをいただけますか?
晴れて、東大のキャンパスのどこからでも好きなだけアクセスしてダウンロードできるようになったわけですから、今言いましたように、どんなキーワードで検索してもいろいろ、予想した結果だけでなくて想像もつかないような結果も出てくる可能性があるわけですから、もう積極的に利用してほしいですね。それは、イギリス史とかアメリカ史とか、あるいはそういった文学などをやっている人だけではありません。例えば院生でロシアの18世紀をやっている人が「Moscow」というのをいくつかの綴りで入れてみたら、すごくたくさんヒットするということで喜んでいました。そういう非英語圏についての情報もたくさんあるわけで、とりわけ日本について、イギリス人やアメリカ人は18世紀に日本に来ていませんので、オランダ経由の情報に違いないけれども、それでも「Japan」とか「Nifon」とかいうことで引きますと、たくさん出てきます。いろいろ試して、僕には想像もつかないような新しい研究領域なども開発してほしいですね。ECCOはそういうアタックをされるのを待っている、可能性に満ちたデータベースだ、と思います。(笑)

 

ぜひ、この機会に使いこなしていただきたいと思います。ますます、アクセス数を上げていただければと思います。(笑) 本日はどうもありがとうございました。
ありがとうございました。

ゲストのプロフィール

近藤和彦 (こんどう・かずひこ)

東京大学名誉教授
王立歴史学会フェロー(F.R.Hist.S.)

専門分野:

西洋史学

研究テーマ:

ヨーロッパの政治社会、イギリス諸島の歴史、歴史学の歴史

インタビュー・ブログ・講演等

http://kondohistorian.blogspot.com