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慶應義塾大学教授
実施日:2019年3月25日
機 関:慶應義塾大学
協 力:紀伊國屋書店
トピック:
Sunday Times Historical Archive
Times Digital Archive
Daily Mail Historical Archive
Punch Historical Archive
Illustrated London News Historical Archive
前回のインタビューは2014年1月ですから、早いもので5年も経ちました。前回のインタビューはイギリスにご滞在中でした。ご著書の「あとがき」にも書かれていらっしゃいますが、イギリスには2年間いらっしゃったのですね。
そうです。
1年目はロンドンで、2年目はブライトンにいらっしゃったとのことですが、インタビューさせていただいたのは1年目ですよね。
そうだったと思います。
セミナーに出席されたり、講演をなさったりと、ご多忙の合間に時間を割いていただいたわけですが、グレアム・グリーンの母校の高校でも、講演をなさったようですね。
はい、しましたね。
本題に入る前に昨年上梓された『グレアム・グリーン ある映画的人生』(慶應義塾大学出版会)について簡単にご紹介いただけますか。
この本は、グレアム・グリーン(Graham Greene)というイギリスのモダニズム作家がどのように同時代の映画から物語を作ることを学び、一人の作家として成長していったのかをまとめた本です。私自身、文学と映画を専門にしています。従来は、文学と映画を分け、文学研究は文学だけを、映画研究は映画だけを対象にして、研究が行なわれてきました。しかし、グレアム・グリーンをテーマにする場合、そのようなアプローチでは十分ではありません。グリーンはイギリス文学の伝統の中で捉えなければならない作家ですが、それと同時に同時代の映画という芸術との交渉の中で自分の作家としてのキャリアを歩んだ人です。1930年代後半には映画批評家として、毎週のように映画批評を書いていました。その映画批評には、グリーンが見た映画、映画監督たちとの交渉の軌跡が刻印されていて、それらがグリーンの頭のなかで発酵し、小説として形をなしてゆく。グリーンの小説は、そのほとんどが映画化されていますが、それは、グリーンの作品自体が映画を影響圏として生まれてきているからであって、グリーン作品が映画化されやすいというのは、とても自然なことなのです。グリーンを題材にして、1930年代のメディア環境における文学と映画の交渉のプロセスを書いてみたい、というのがそもそもの執筆動機でした。
ご著書に対する反響はどうですか。
いくつか書評を書いていただきました。日本経済新聞では野崎歓さん、毎日新聞では若島正さんが書いて下さいました。『キネマ旬報』『週刊読書人』『図書新聞』にも書評が載りました。研究書としては売れ行きが良い、と聞いています。
今おっしゃったメディア環境の中での作品という視点が本書を読んで面白かった点です。グリーンが書いた映画批評が本書にも引用されていますが、ちょっと驚いたのは『タイムズ(The Times)』に映画評を書いているのですね。『タイムズ』といえば書評のイメージしかなかったのですが、1920年代という早い時期から映画批評を載せていたことに驚きました。
映画は19世紀末に誕生しましたが、当初は言わば見世物で、映画の尺も1分とか2分ぐらいの短いものでした。ミュージックホールのようなところで、芸人たちが披露する芸の一つとして映画があったわけです。その後、1910年代になると、物語映画のフォーマットが完成します。次第に映画の尺が伸びてきて、映画館で鑑賞されるようになり、独立した娯楽としての地位を獲得するようになるのが1920年代、1930年代です。書物のように映画も批評の対象になり、新聞に映画評が載り、映画批評家が誕生します。C.A. ルジューン(Caroline Alice Lejeune)という人がいますが、彼女は『オブザーバー(Observer)』の映画批評家として名を馳せた人です。
ご著書では『タイムズ』から『デイリー・テレグラフ(Daily Telegraph)』『デイリー・メイル(Daily Mail)』『リスナー(Listener)』『パンチ(Punch)』まで、小社が電子版を提供している新聞・雑誌が引用されています。他には『スペクテイター(Spectator)』『ニュー・ステイツマン(New Statesman)』『サタデイ・レビュー(Saturday Review)』も引用されています。この他にも、引用されてはいないものの、参照なさった多くの新聞・雑誌があるのではないかと推測します。前回のインタビューで複数の新聞・雑誌を同時に検索して結果を判断するリサーチ力に言及していらっしゃいました。本書を執筆される過程でどのくらいの新聞や雑誌を参照されたのでしょうか。
当時は映画雑誌の映画評よりも、新聞の映画評の方が大きな影響力をもっていました
今挙げられた新聞や雑誌以外には『オブザーバー』『ガーディアン(Guardian)』(当時は『マンチェスター・ガーディアン』)をよく使いました。それから、やはり文学と映画が主題の本ですから、映画雑誌ですね。1930年代は映画雑誌が花開いた時期です。日本の『キネマ旬報』のイギリス版とも言える『サイト・アンド・サウンド(Sight and Sound)』は頻繁に参照しました。他にも、『ピクチャーゴウアー(Picturegoer)』をはじめ、いろいろな映画雑誌が出ていましたので、それらの映画雑誌を使ってリサーチしました。ただ、同時代のメディア環境の中で映画を考えるときに、映画雑誌が研究情報源としては一番重要な媒体であるのは言うまでもありませんが、映画雑誌だけを読んでいたのでは分からない部分もあります。この時代のメディア環境の中で新聞は大きな存在でした。同時代人に対する影響力で言えば、映画雑誌の映画評よりも、購読者の多い『タイムズ』や『オブザーバー』等の新聞の映画評の方が大きかったわけです。新聞の映画評が映画の宣伝にも使われました。今でもまだ新聞の影響力は残っていますが、1930年代にグレアム・グリーンのような映画批評家が新聞や雑誌に寄稿した映画評は大きな影響力を及ぼしました。
特定の映画の批評を探したい場合、おそらくここに載っているだろうと、ある程度見当をつけてお調べになったのですか、それとも、電子リソースを駆使して、探し当てたのでしょうか。
雑誌によっては、誰が書いたのか分かる場合があります。たとえば、『オブザーバー』ならC.A.ルジューンが書いていると分かるわけです。有名な映画批評家であれば、映画批評集が書物として刊行されています。グレアム・グリーンの映画批評も本になっています(The Graham Greene Film Reader: Reviews, Essays, Interviews and Film Stories)。700ページぐらいの大部のものですが、僕はこれを全部読んで、取り上げられている映画はほとんど全部見ました。同じ映画について、グリーンの批評、ルジューンの批評を調べます。グリーンも、映画批評を書くときは、同時代の映画批評家の批評を押さえた上で書いています。ですから、データベースで調べるときは、映画作品名で検索し、さらに作品名と批評家名の掛け合わせ検索するという方法を取りました。
ご著書の中でも触れられていますが、当時の新聞の映画評は必ずしも署名入りではないのですね。
そうなんです。
「この映画評はグリーンが書いたと考えてもおかしくない」という言い方をされている箇所もありました。
本を執筆するに当たり、『タイムズ』の映画評はかなり入念に読みました
『タイムズ』の映画評ですね。あれは大胆な断言のように聞こえるかも知れませんが、根拠はあります。グリーンは『タイムズ』の新聞記者でした。イギリスはコネクションの文化ですから、『タイムズ』で仕事をしていれば、「君、映画評を書いてみないか」と、言われるはずです。先ほど挙げたグリーンの批評集には、『タイムズ』に掲載された映画評が幾つか入っています。でも、おそらく、他にもあるはずです。厳密に文体を分析すれば、突き止めることができるでしょう。この本を執筆するに当たり、『タイムズ』の映画評はかなり入念に読みました。その上で、グリーンの映画評であると言えそうなものは、勇気を出して断言しました。
なるほど。
記事に署名がないと言えば、TLS(Times Literary Supplement)(『タイムズ紙文芸付録』)に署名入りの記事が載るようになったのは最近のことですよね。
はい、1970年代です。
無署名の記事を前にして、あらゆる情報を手掛かりにグリーンのものではないかと、推測する作業はとても面白いものでした。
小社のデータベースはリサーチ力を発揮し易い機能やインターフェースになっていますか。
どこにでも出てきそうな広告記事ですが、研究者にとってはすごく貴重な情報源です
(The Sunday Times, Sunday, December 11, 1932)
すごく役に立ちました。キーワード検索でいろいろなところを拾ってくれるところがよいです。たとえば、広告です。この本でも、『サンデイ・タイムズ』に掲載されたハイネマンという出版社の広告を取り上げています。この広告を見ると、どのような本がグリーンと一緒に販売されていたかが分かります。プリーストリー(John Boynton Priestley)もいれば、サマセット・モーム(Somerset Maugham)もいます。グリーンがどの路線で売られようとしているかが分かる情報です。作品に関するコメントも載っていますが、新聞の書評から取られていることが分かります。どこにでも出てきそうな広告記事ですが、研究者にとってはすごく貴重な情報源です。幅広く色々なところを細部まで検索で拾ってくれれば、研究者としてはたまらない情報源になります。
『サンデイ・タイムズ』における広告の重要性については前回のインタビューでも触れていらっしゃいました。この広告が使われているのを見て、先生、実践されているなあ、と思いました。
『サンデイ・タイムズ』大好きです!
昨年『パンチ』の電子版をご導入いただきましたが、ご著書にはロンドン警視庁の特別機動隊の記事が引用されています。
はい、”Flying Squad” ですね。
強盗の捜査機関ですか。
そうです。
どうして特別機動隊を取り上げたのですか。
これは実は書き手の戦略なのですが、ヒッチコックとグリーンを結びつけたかったという事情があります。グリーンはヒッチコックに嫉妬していたのです。年齢も同じくらいで、映画と小説というメディアの違いはあれ、自分と同じように大衆路線で行く作家としてヒッチコックを見ていました。実際、ヒッチコックは映画作りがうまい。圧倒的に映画的才能がある。そこにグリーンはすごく嫉妬していたのですが、嫉妬するが故に厳しく批評する。映画のことが全然分かっていない、と。でも、自分が売れていない時期はずっとヒッチコックの後ろ姿を見ていたのです。ヒッチコックの『恐喝(Blackmail)』に特別機動隊が登場する有名な冒頭シーンがあります。一般市民から警察に電話が入り、特別機動隊が出動して社会主義者が逮捕され、機動隊が戻ってくる。そこから本筋が始まります。ですから、特別機動隊が登場する冒頭シーンは不要とも言えます。でも、ヒッチコックはそのシーンを敢えて挿入した。それを理解するためには、この映画が製作された1929年の状況を知る必要があります。当時、特別機動隊が一般市民の関心を集めていました。今のドローンみたいなものです。今多くの映画で冒頭にドローンのショットが出てくるように、冒頭シーンに特別機動隊のシーンを挿入したのです。
なるほど。
特別機動隊が同時代で持っていた文化的広がりを掴むのに、ゲールのデータベースが大きな威力を発揮しました
グリーンも『ここは戦場だ(It’s a Battlefield)』という小説の中で特別機動隊を取り上げますが、その場面と、特別機動隊の内部を見せる『恐喝』のシーンがほぼ一致するのです。これは論理的に実証することはできませんが、研究者の直観として同じものとみなすことができます。両者の繋がりを付けたかったわけです。ただ、繋がりを付ける場合、作品レベルだけで論じるのではなく、文化史的な広がりを持たせたかった。特別機動隊が同時代にどのような文化的広がりを持っていたのか、知りたかった時に、ゲールのデータベースが大きな威力を発揮したのです。まず『タイムズ』です。『タイムズ』が優れているのは、事実だけを淡々と客観的に書いているところです。事実だけを書くのは、ある意味では権威的な操作です。誰々を逮捕したという事実にしても、本当にその人が犯人であったかどうかは触れないまま、逮捕の事実だけ書けば、権力の言説になります。社会の安定を脅かす存在を逮捕するのが特別機動隊です。ロンドン中心部に住むエリート層や富裕層には安心感を与える存在です。その点を指摘した上で、同時代の人々、特に中流以上の人々の眼に特別機動隊がどのように映っていたかを把握するためには『タイムズ』は格好のメディアです。情報源としてすごく役にたつ。でも『タイムズ』だけを見ていたら分からない面もあります。
それは何ですか。
エリート層や富裕層以外の人々の眼に特別機動隊がどのように映っていたのか、という側面です。その時に生きてくるのが『パンチ』です。『パンチ』はやはり挿絵が面白い。引用した記事を見ると、当時の人々が皆、最新のテクノロジーとして特別機動隊のことを捉えていたことが分かります。まず、速度比較表の載っている「スピードの相対性」という記事(98-99ページ)です。「1927年の初秋にアインシュタイン教授と(記事の著者の)私によって計算された」という様々な物の平均速度が比較された表ですが、特別機動隊は時速45マイルで、その少し上はなぜか放射能です(笑)。すぐ下の牡蠣は秒速3フィートとなっている(笑)。ネルソン像なんて、不動ですよ(笑)。この記事はどうしても引用したくて、引用しました。単なるギャグなんですけどね。研究書にもギャグがあってもいいじゃないですか!
(笑)
(Punch, Wednesday, September 5, 1928)
100ページでは2つの諷刺画を引用しています。上のアーサー・ワッツの諷刺画は、割り込み運転をした車の運転手に向かって、バスの運転手が「お前さんは自分のことを何様だと思ってやがるんだ。特別機動隊か?」というキャプションが付いています。当時、特別機動隊がよく割り込み運転をしていて、それを揶揄しているのが分かります。下のL.B.マーティンの諷刺画は、左にいるのはスピード狂の客ですが、その客に向かって自動車のセールスマンが「お客様、この車のエンジンはロンドン警視庁の特別機動隊によって使われているエンジンと同じものです」と言うと、「そうか、じゃあ自動車強盗仕様のものはないかな」(笑)。人々にとって特別機動隊が何よりも速い存在だったことがこれで分かりますね。『パンチ』最高です!自分では第2章では『パンチ』を引用している部分が一番好きです。
(Punch, Monday, May 13, 1929)
(Punch, Wednesday, June 5, 1929)
本当に面白いですね。
『タイムズ』と『パンチ』を並置したかったのです
こうやって『タイムズ』と『パンチ』を並置したかったのです。
なるほど、そういうことだったのですね。『パンチ』は諷刺雑誌で、諷刺の肝を読み解くには、同時代の文化や社会状況に関する知識が求められ、読み解きは学生には容易ではないと思いますが、逆に言えば、それを読み解く訓練をすることで、格好のイギリス文化論の教材になると思います。教育的資料としての『パンチ』の可能性についてはどうお考えですか。
気になった言葉が当時どのように使われていたのか調べるには、『パンチ』は格好の資料です
神経戦(War of Nerves)という言葉が1940年代に使われました。変な言葉ですが、相手を怖がらせ、洗脳させるイデオロギー戦を意味します。どれだけナチスが強いか、アピールするのも神経戦です。神経戦をOED(Oxford English Dictionary)で引くと、この時代の用例が幾つか出てきます。『パンチ』で検索すると、凄く面白いです。ちょっと気になった言葉があれば、当時どのように使われていたのか調べるには、『パンチ』は格好の資料です。
(Punch, Wednesday, November 3, 1915)
これは1915年の記事です。誰かが背後にいても戦争前はビビっていたのに、戦争後はビビらない、という状況変化がビフォア・アフターで示されている非常に面白い諷刺画です。これだったら教材に使えるでしょう。どういう状況か、ヒントを与えながら、学生に考えさせるのは、さほど難しくないでしょう。
もう一つの記事は、1944年の記事です。“If you want my opinion, all this talk about using elephants is just another part of the Carthaginian war of nerves”という表現が出てきます。Carthaginianは古代ローマと戦争をしたカルタゴです。この挿絵の中にはどこにも象がいませんが、象を使うということに関して言えば、カルタゴの神経戦のようなものだろう、と言っています。さらに「カルタゴ」で今度はグーグル図像検索すると象に乗った兵士の挿絵がヒットします。カルタゴの兵士たちは象に乗っていたわけです。この挿絵には象が描かれていませんが、象を使うという表現が使われている。『パンチ』の読者層は、象に乗るカルタゴの兵士というイメージが共有されていたことがここから推測できる。象に言及することの面白さ、それに、挿絵では兵士は歩いていますが、象に乗れば強く見えるだろうというのが、ジョークの肝でしょう。これも教材として使えそうです。
(Punch, Wednesday, January 5, 1944)
日本とイギリスの文化的ギャップが読解を難しくしますが、時代のギャップが読解を難しくする面もあるでしょう。現在の若い世代のイギリス人にとっても、『パンチ』には分かりにくい部分があると思います。そのようなギャップは止むを得ません。特別機動隊の例も教材として使うには難しい面があります。当時のテクノロジーの文脈を理解していなければなりません。神経戦にしても、『タイムズ』でヒットした記事と『パンチ』でヒットした記事を比較しながら、言葉を通じた文化の分析をトレーニングとしてやれば、凄くクリエイティブな教育になるでしょう。答えは出さなくてもよいのです。ただ、学部ならイギリス文化論のゼミ、あるいは大学院のレベルですね。
《関連エッセイ:世相を映す合わせ鏡:『パンチ』と『タイムズ』》
説明しなくても伝わる部分というのがあったのでしょうね。読者が共有していた教養を推測する手がかりになりますね。
小説を文化史的に紐解いてゆく際に『パンチ』は便利です
なりますね。小説を文化史的に紐解いてゆくのが僕のアプローチの一つですが、その時に『パンチ』は便利です。小説を読んでいると、時々分からない部分が出てきます。グリーンの小説に、いきなり特別機動隊が出てきても、どうして特別機動隊なのか、小説だけ読んでも分かりません。他のメディアを調べてみて、ようやくその意味するところが明確になることがありますが、そこには考古学的な喜びがあります。
ご著書に戻ると、『デイリー・メイル』はどうでしょうか。
『デイリー・メイル』はトライアル期間中に使わせていただいたので、3日間ぐらい集中して必要な記事は全部ダウンロードしました(笑)。この本では『デイリー・メイル』を註で使いました。僕は註も力を入れて書きます。自分ではこの本は註がよく出来ていると思っています。
註の面白さは私も感じました。
『デイリー・メイル』必要なんですよ!
註を一つのネタにしているのです。第2章の註(6)で言及していますが、エドガー・ウォラス(Edgar Wallace)という作家が『特別機動隊』という戯曲を作って、しかも映画化されています。今では忘れられていますが、ヒッチコックの前にエドガー・ウォラスというイギリスのショーマンみたいな人が1928年の段階で特別機動隊を題材にした作品を作っていて、大衆的な娯楽の対象になっていたのです。その素地があって、ヒッチコックが特別機動隊に関する大衆的イマジネーションをうまくハイブラウに芸術的に昇華させて映画化し、さらにグリーンもそれに追随する。そういう前後関係が見えてきたのは、『デイリー・メイル』にエドガー・ウォラスの「特別機動隊」という小説が連載されていたのを知ったからです。『タイムズ』だけであれば、この辺りの事情は見えて来なかったでしょう。だから、『デイリー・メイル』必要なんですよ!中産階級以上の人々の価値観を捉えるためには『タイムズ』で十分ですが、国民的レベルの想像力や大衆的想像力を汲み取るためには『デイリー・メイル』が必要です。
『デイリー・メイル』の必要性がとても伝わってくる例です。
今の映画研究はメディア環境の研究です
映画だけ取り上げる映画研究は古いアプローチで、今の映画研究はメディア環境の研究です。映画とテレビとインターネットと漫画がどのようなメディア環境を作っているか、という観点からの研究です。1920年代、30年代を見てゆく場合も、小説や映画を別々に見てゆくのではなく、小説と映画を含むメディア環境を見ていかなければならないですし、そのメディア環境の中で新聞は重要な役割を果たしていたわけです。エドガー・ウォラスの連載小説「特別機動隊」は『デイリー・メイル』を読むミドル・ブラウやロウ・ブラウの人々にとっての娯楽だったわけです。そのような連載小説を読んでいる人々が、ロンドンの街を歩いていて現実の特別機動隊を目にして、「あっ、特別機動隊が来た!」と、なるわけです。メディア環境とはそういうものです。今度の本ではあまり取り上げることが出来ませんでしたが、メディア環境を担うものとして演劇もあります。イギリスでは演劇は非常に重要です。演劇がスクリプトとして残っていればともかく、そうでない場合には、後世の我々は新聞からその痕跡を拾うしかないわけです。新聞記事を基に、いつ頃上演された演劇で、ロンドン中心部のウェストエンドの上演期間はどのくらいで、周辺の劇場での上演期間はどのくらいであったか、探ります。そういったことの総体が文化なので、新聞をはじめ様々なメディアに目配りをする必要があります。
註の話題が出ましたが、第1章の註(1)でマイケル・ノースの研究を参照しつつ、「私はとりわけモダニズム文学を新聞やラジオ、映画などのメディアと並置して論じるノースの学際的アプローチに影響を受けている」と、書かれています。映画も文学も作品ですから両者を並置して論じるのは理解できますが、新聞と文学をどのように並置して論じるのか、この箇所を読んで疑問を覚えましたが、今のお話をうかがって、新聞とその他のメディアを並置する学際的アプローチがどのようなものなのか、分かりました。この機会に、ノースの学際的アプローチについて、もう少しご説明いただけますか。
メディア環境の変化という観点からモダニズム作家の作品を見ると面白い
1920年代にラジオが登場し、BBCが独占的に放送します。ラジオが登場する以前は、新聞が主要なメディアだったわけです。そこにラジオが登場し、情報が音声としても入ってくる。メディアが新聞から別の媒体に移行する。ラジオ以前に映画がありました。当初のサイレント映画は視覚情報だけですが、1920年代末にトーキー映画が登場すると、音声も加わる。娯楽のメディアが文字だけではなくなる。文字中心のメディア環境から視覚・聴覚まで含めたメディア環境に移行します。そのとき、新聞の質も変わったのです。『タイムズ』に代表される伝統的な保守層が読む新聞とは異なる、『デイリー・メイル』のような大衆的な新聞が登場し、部数を増やしていく。メディア環境が変わると、作家たちは不安になるわけです。T. S. エリオット(Thomas Stearns Eliot)やジェイムズ・ジョイス(James Joyce)らの作家は、今ではモダニズム作家と呼ばれていますが、基本的には19世紀以来の伝統的価値観を大切にしていました。彼らはメディア環境の変化を前に、このままで良いのかと悩むわけです。その結果、ジョイスのように、色々な文体を詰め込んだり、新聞記事をコラージュ風に切り貼りしたような文体にしたり、章ごとに文体を変えたりと、実験的な試みを行なう。そのような実験をやらざるを得なかった、根源的な理由を探れば、映画やラジオの登場とそれに伴う視覚文化や聴覚文化の変容を目の当たりにして、文字の安定感が崩壊しつつあるとの感覚に襲われ、文字に強い拘りを持つようになったからではないか。そのような観点からモダニズム作家の作品の変遷を見てゆくと面白い、というのがマイケル・ノースらの研究者が言おうとしていることです。そして、このような視点が出てきたのは、モダニズムの時代と同様に、現代のメディア環境が変わってきているからです。大学教育の現場でも、僕が大学生の時はパワーポイントみたいなものはなかったですし、教科書は紙の本でしたが、最近はハンドアウトを配布する先生は少なくなり、学生は事前に教員が配信したパワーポイントを見ながら、授業を聞くというスタイルです。文学研究者が映画研究をやり始めるようになったのも、映画がDVDやストリーミングで入手しやすくなったからです。研究者のメディア環境も変わってきている。新しい眼で1920年代、30年代のモダニズム文化を見つめ直すことができるようになったのです。
ケヴィン・ウィリアムズ(Kevin Williams)の『全てが分かる-イギリス新聞史』(Read All About it ! A History of the British Newspaper)というイギリスの新聞の歴史をまとめた非常に面白い本があるのですが、その中で、新聞のデザインとレイアウトが大きく変わった20世紀初頭のことが述べられています。それまで新聞といえば、縦長のコラムに文字がびっしり詰まっていたのが、横長のバナー・ヘッドラインや写真が使われるようになる。垂直に読んでいた新聞が水平に読まれるようになる。その時代を象徴するのが大衆紙『デイリー・エクスプレス(Daily Express)』の編集長アーサー・クリスチアンセン(Arthur Christiansen)です。新聞の編集長といえば、何を、どのような視点から報道するかに関心を持つはずですが、そういうことには興味を持たずに、デザインとレイアウトにしか興味を持たなかった特異な編集長でした。このような編集長が出てきた背景には、映画という新しいメディアが登場して、人々の視覚の経験が変わったという事情があり、その変化を新聞も受け止めなければならない、と新聞人は考えたのではないか、というようなことが言われています。
集中力のモードが変わったのでしょうね。コラムを最初から最後まで読んでいく集中力ではない、新しい集中力のモードが出て来たのでしょう。映画でも、1920年代、30年代のハリウッド映画では一つ一つのショットの間隔が短い。一つ一つ切ってゆく感じです。文字面をずっと見せるという注視のモードではなく、移り変わる時間の中で見せるモードに変わったのだと思います。今の学生はユーチューブやニコニコ動画しか見ていないので、なかなか長い映画を見ることができません。授業で90分の映画を見ておくように、と言っても、通して見てくる学生はほぼいないです。早送りして見てきました、などと堂々と言う。(笑)モダニズムの小説って、ヴィクトリア朝時代の、ジョージ・エリオット(George Eliot)などの長い小説と比べると、基本的に短いですよね。ヴァーニジア・ウルフ(Virginia Woolf)のケンブリッジ版でも『ダロウェイ夫人』(Mrs. Dalloway)はおよそ170ページ、『幕間』(Between the Acts)は160ページ弱です。短いというのが19世紀の小説と比較したモダニズム小説の一番の相違です。これは新聞とも繋がっているような気がします。
1930年代の作家とメディアを論じたキース・ウィリアムズ(Keith Williams)の『イギリスの作家とメディア-1930年から1945年まで』という本がご著書に引用されていて、面白そうな本だったので、どのような本か調べている中で、今名前の挙がったヴァージニア・ウルフの『幕間』に「彼女の世代にとっては新聞が本であった(For her generation the newspaper was a book)」というフレーズがあることを知りました。このフレーズを手掛かりに、ウルフらのモダニズム作家の目に『タイムズ』に代表される1920年代、30年代の新聞がどのように映っていたのか、ご教示ください。
実は今、『幕間』を翻訳しているのです。
えっ、そうなんですか!
「新聞が本である」と言えるヴィクトリア朝以来の文化の厚みがあるのです
そうなんですよ。今年中に出版する予定です。このフレーズが登場する部分はとても重要です。試訳ですが、その前の部分から読んでみます。この場面は、イギリスの田舎の邸宅ポインツホールに住むジャイルズ家の若主人の妻アイサが図書室を歩きながら、空想を巡らすシーンです。「彼女」はアイサのことを指しています。
「図書館はいつもこの家の最も素敵な部屋」と彼女は引用し、蔵書に目を走らせた。本は「魂の鏡」であった。『妖精の女王』やキングレイクの『クリミア戦争』、キーツや『クロイツェル・ソナタ』、それらはそこで映し出していた、何を?彼女の歳でーこの世紀と同じ歳、つまり39歳でー、彼女にとって本にどんな解決策があったのだろうか?彼女は彼女の世代の他の人々と同様に、本嫌いだった。そして怖がりだった。けれど、激しい歯痛を抱えた人が薬局で治療薬を含んだものがないかと、金箔の巻物を貼った緑の瓶に目を走らせるように、彼女は注意深く考えた。キーツやシェリー、イエーツやダン、あるいは詩ではなくて、人生はどうだろう。ガリバルディ伝、パーマストン卿伝、あるいは個人の人生ではなく、州の人生なんか、どうだろうか。『ダラムの遺物』や『ノッティンガム考古学協会会報』。あるいは人生ではなくて科学—エディントン、ダーウィン、ジーンズ。それらのどれも彼女の歯痛を止めることはできなかった。彼女の世代にとっては新聞が本だったのだ。彼女の義理の父がタイムズ紙を置いていったので、彼女はそれを手に取って読んだ。「緑の尾をした馬」、それはロマンティックだった。次は「ホワイトホールの守衛」、それはロマンティックだった。言葉を積み重ねて彼女は読み続けた。「騎兵たちは彼女にその馬は緑の尾をしている、と言った。だが彼女はそれがただの普通の馬に過ぎないと見抜くと、彼らは彼女を兵舎の部屋へと引きずってゆき、彼女をベッドに放り上げた。そして、騎兵たちの一人は彼女の衣服の一部を脱がせると、彼女は悲鳴を上げ、彼の顔を殴った」それはリアルだった。あまりにリアルだったので、彼女にはマホガニーのドアの鏡板の上にホワイトホールのアーチが見えた。アーチの部屋を抜けると・・・・」
という感じで進んでゆきます。すごく面白いところです。『タイムズ』が出てきますが、この部分だけ見ると、「彼女の世代にとって新聞が本だった」というキャッチーなフレーズになりますが、その後に続くのは『タイムズ』に掲載されたレイプ事件の報告です。『タイムズ』の性格がよく現れています。ウルフは『タイムズ』だけでなく、新聞をよく読んでいて、切り抜きもしています。このレイプ事件は実話です。こういう風に『タイムズ』は使われるのです。良くも悪くも権威ある記述なのです。レイプ事件の記事をウルフは批判しながら引用していますが、その前の部分には『妖精の女王』やキーツといった詩や詩人、それから伝記、科学が出てきます。つまり、『タイムズ』は詩や小説から伝記、科学までのすべてを合わせたものの、いわば代用物としてここで引用されているのです。今の日本の新聞とは比べるべくもないですが、『タイムズ』は今読んでも、記述が正確で具体的で、しかも考察に満ちています。保守層の新聞とはいえ、すごく洗練されている。20世紀になって本が売れなくなっているというウルフの状況認識がある一方で、「新聞が本である」と言えるヴィクトリア朝以来の文化があるのです。この文化の厚みが僕には羨ましい。ウルフの父、レズリー・スティーヴン(Leslie Stephen)はヴィクトリア朝の偉大な文人です。『英国国民伝記事典』(Dictionary of National Biography, DNB)を作った人です。この権威あるヴィクトリア朝文化にウルフらのイギリスのモダニストたちは闘いを挑んだのです。ウルフは書評家としても有名で、若い時からTLS(Times Literary Supplement、『タイムズ紙文芸付録』)に寄稿しています。30歳代の頃からジョージ・エリオットに関する書評を書いていて、「この忙しいのにジョージ・エリオットを全部読み返さないといけない」などと言っています。しかも、小説を書きながら書評を書くのです。ジョージ・エリオットを全部読んで、TLSに書評を書くのですから、その知識量は半端じゃない。これに比べてモダニズム以後の作家たちがやや小粒に見えるのは、彼らがモダニストを敵にしなければならなかったからです。でも、それは困難な営みです。前世代の権威に立ち向かったモダニストという次なる権威に立ち向かうには二重のエネルギーを要します。グリーンはそれがうまくできなかった。だから、映画へ向かったのです。
「新聞が本であった」というフレーズを見たとき、意味がわかりませんでしたが、そういう文化の厚みを指しているのですね。
そうです。でも『タイムズ』は、物理的にも厚いです。朝、家に届けられると、まずアイロンをかけなければいけない。(笑)NHKで放映されたイギリスのテレビ・ドラマ『ダウントン・アビー(Downton Abbey)』にも『タイムズ』にアイロンをかける場面がありました。
ありましたね。ご著書にはいろいろな雑誌が引用されています。グリーンは『スペクテイター』『リスナー』『タイムズ』等、様々な新聞・雑誌に寄稿しています。前回のインタビューで先生は知識人のネットワークについて言及されていましたが、この時代のモダニズムの知識人の雑誌としてどのような雑誌があり、どのようなポジショニングを取っていたのか、代表的なものをご紹介いただけますか。
一つの雑誌がもの凄く成熟した言説空間を作っているわけです
非常に大きなテーマですから、概略に触れる程度に止めますが、T.S.エリオットが創刊した『クライテリオン(The Criterion)』がまず挙げられます。創刊は1922年で、1920年代から30年代にかけて刊行された雑誌です。僕は大学院生の時、東大の図書館に籠り、手を真っ黒にしながら、全巻読みました。どうして読んだのかというと、イギリスのファシズムが取っていた言説の形態に関心を持っていたからです。『クライテリオン』は文芸誌ですが、政治の話題も載ります。これはイギリス文学の大切なポイントです。文学の運動と政治の理念がリンクしているのです。エリオットは、その点では典型的なイギリス気質の作家です。すごくリベラルであると同時に、秩序や権威や伝統を重んじる人です。『クライテリオン』で保守主義やファシズムの特集を組んだりする。この時代の雑誌はそれぞれカラーがあります。エリオットの雑誌はエリオットのカラーが出る。エリオットとウルフは政治的に相容れない部分もある。でも二人は友人なので、ウルフは『クライテリオン』にも寄稿する。雑誌のカラーや政治的色彩はあるけれども、それだけではない。友人関係等のいろんな要素が入ってくる。ここが1920年代、30年代の雑誌を見てゆくときのポイントです。一つの雑誌が物凄く成熟した言説空間を作っているわけです。ウルフがよく投稿していた雑誌としては、TLSの他に『ネイション・アンド・アシーニアム』があります。『ネイション』と『アシーニアム』の二つの雑誌が合併して一つの雑誌になったものです。『ネイション・アンド・アシーニアム』には、経済学者のケインズ(John Maynard Keynes)も関わりました。ケインズもウルフの友人です。ウルフの夫レナード・ウルフもこの雑誌に関わっていました。『ネイション・アンド・アシーニアム』は1920年代のリベラルな政治・文芸雑誌です。慶應の図書館に所蔵されています。この雑誌が1931年に『ニュー・ステイツマン』に吸収される。そして『ニュー・ステイツマン』にウルフたちが書き始める。ケインズもレナード・ウルフもリベラルで、どちらかと言うと労働党寄りの雑誌で、リベラルな文化のフォーラム的な役割を果たしました。1930年代は、一方で『クライテリオン』のような右寄りの雑誌があって、他方で『ネイション・アンド・アシーニアム』や『ニュー・ステイツマン』のようなリベラル系雑誌があり、ウルフはそのどちらにも書いていたわけです。
なるほど。
ウルフのもう一つの側面は、アメリカとの繋がりです。ウルフのエッセイが『ニューヨーク・タイムズ』で取り上げられ、アメリカの出版社からのオファーがあり、原稿を書き、アメリカでも発表し、さらにイギリスでも発表する、という状況でした。イギリスだけを見るのではなく、トランスアトランティックな英米の雑誌文化を調べなければいけないな、と考えています。
アメリカでは大衆的な雑誌が出てきた時期ですね。弊社は1924年に創刊された大衆誌『リバティ・マガジン』の電子版、Liberty Magazine Historical Archiveを提供しています。ここには、アメリカ人作家だけでなく、アガサ・クリスティ(Agatha Christie)などイギリス人も寄稿しています。また最近、アメリカの雑誌6,000誌以上を収録する電子リソース、American Historical Periodicals from the American Antiquarian Society をリリースしたばかりです。20世紀前半も収録範囲ですが、19世紀が多いです。さらに、1938年創刊のイギリスの雑誌『ピクチャー・ポスト』の電子版、Picture Post Historical Archiveもあります。この雑誌は発行期間が20年足らずの雑誌ですが、フォトジャーナリズムのパイオニアとして一時代を築きました。グリーンの「おとなしいアメリカ人(The Quiet American)」が連載された雑誌でもあります。『グレアム・グリーン ある映画的人生』にも引用されている武藤浩史先生の「プリーストリーをなみするな!」に「1930年代英国では、「人びと the people」という概念が流行語のようになり、特に「ふつうの ordinary or common」という形容詞とともにしばしば用いられて、「ふつうの人びと」が英国の屋台骨として讃えられた。ドキュメンタリー映画、『ピクチャー・ポスト』、マス・オブザヴェーションなど、この時代を代表する左翼的文化運動は、この「ふつうの人びと」を英国の中心と捉えて、それぞれの方法で彼らを代理=表象しようとした」と述べられています。『ピクチャー・ポスト』についてはどのようにお考えですか。
面白い雑誌だと思います。ウルフがこの雑誌に投稿してリジェクトされた、というような記事を見かけたことがあります。王室を批判する記事か何かだったようです。関心はあります。創刊されたのは戦争の時代です。この時代の人々にとって、スペイン市民戦争が大きい。スペイン市民戦争を取り上げ、読者に伝えようとする場合、写真が大きいですよね。慶應義塾の図書館に原本が所蔵されているので、電子版を導入するにはそれなりの強い理由が求められますが、この時代を知るにはものすごく貴重な資料だと思うので、電子版で使えることができればと思っています。
最後に、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース(Illustrated London News)』ですが、この度電子版をご導入いただき、ありがとうございました。ただ、今までのお話やご著書からは、この資料を先生が一押しして下さった理由が見えてきません。その辺りをお聞かせいただけますか。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の挿絵は、人々の想像力を支えていました
個人的な理由と公的な理由があります。個人的には、ヴァージニア・ウルフの伝記を準備しているという事情があります。今43歳ですが、50歳までにまとめる予定です。先ほど名前を挙げたウルフの父親レズリー・スティーヴンは、19世紀ヴィクトリア朝を代表する文人です。ウルフ伝では、レズリー・スティーヴンとウルフの関係を一つの章に当てたいと考えています。ウルフは文化人として父親に勝ちたかったのです。いつも父親のことを見ていて、書いたものを読んでいます。ウルフを扱うのであれば、ヴィクトリア朝のことを本当に知りたいと思っています。19世紀のメディアをきちんと押さえておきたい。本を読むというのは点と点を結ぶような作業ですが、それらの点には収まらないようなもの、漏れてしまうものが雑誌の中にあると思っていて、そのような視点から『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』をきちんと読んでみたいと思っています。何といっても挿絵が面白い。何気ない一つ一つの挿絵も「読める」のです。この挿絵が当時の人々の想像力を支えていたと言えます。クリスタル・パレスを見に行くことができない人に対して、クリスタル・パレスのイメージを喚起させたことを記録する資料として読むことができますし、ディケンズ(Charles Dickens)のテキストをきちんと読みながら、当時の人々がイーストエンドについてどういうイメージを持っていたのか、挿絵に描かれた人物や描き方を通して、読み解いてみたいと考えています。挿絵自体が資料なのです。
なるほど。
それから、もう少し大きな意味では、本学は基幹大学で歴史の研究者も多いので、彼らにとっても有益な資料になるはずですし、19世紀のイギリス小説を研究する人は参照しなければならないでしょう。
前回のインタビューの際、グレアム・グリーンが次のプロジェクトであるとおっしゃっていましたが、本書の上梓をもってそのプロジェクトが完成を見たわけですが、次のプロジェクトはヴァージニア・ウルフということですね。ウルフ伝が完成した暁には、是非次のインタビューをさせていただければと思っております。今日は、どうもありがとうございました。
※このインタビューを行なうに際して、株式会社紀伊國屋書店様のご協力をいただきました。ここに記して感謝いたします。
(左から) 伊佐佳子さん(紀伊國屋書店)、佐藤先生、長理奈さん(紀伊國屋書店)
ゲストのプロフィール
佐藤元状(さとう・もとのり)
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程(2006年単位取得退学)博士(学術)
・専門
イギリスのモダニズム文学、ポストコロニアル文学、イギリス映画
・著書・論文
ほか多数
現在(2021年)慶應義塾大学法学部教授